熟読『渋沢栄一のこころざし』田園調布を作った人物でした。

山岸逹児/渋沢栄一のこころざし|しぶさわ えいいち|初版1988.3.19(昭和63年)|航空写真引用元:http://www.asahi.com/articles/ASG7V74KGG7VULOB02D.html

『渋沢栄一のこころざし』

「お金について学ぶワークショップ」

を行っての先生が子供達にお薦めしてくれた本。

小1の娘が気に留めたら読んでもらえたらなぁくらいで置いておいて読んではくれなかったので、私が読みました。

関係の薄い本かなぁと思って読み始めましたが

なんと、

田園調布を作った男

ということがわかり驚きました!

ほぼ大田区ですが、世田谷区も多少含まれていて、うちから自転車で35分と身近?でした。

まさか一人の想いから出来ているとは。。

渋沢さんには『街づくりの夢』があった

・日本橋 兜町
晩年、商業都市を作ろうと「兜町」で画策しましたが、横浜港を商売の窓口としていた会社からの反対に会い断念。

・丸の内
丸の内にビジネス街を作ろうと、麹町のその一帯の土地を買う争いに負け断念

・田園都市
高齢になっても理想の街を作りたい想いは変わらず、争うことのない土地を買いました。まだ電車も水道も電気もない「田園都市玉川台」の土地を購入。田園都市玉川台の上の半分を放射線状に区切って住宅専用とし、下の半分に商店街や学校を作るという計画し、大正7年に分譲を開始して10年掛かりで街らしくなった。とのことです。

「田園都市玉川台の街づくりの協定」(紳士協定)

1.放射性で集中性の高い街の割付
2.豊かな並木町
3.塀をやめて生垣を作る
4.道から引き込んだところに住居を立てる

自然の佇まいの中で、何よりも庶民の心休まる街であることが栄一の願い

とのこと。

さて、田園調布だけでなく、
彼のすごいエピソードがたくさんありました。

幕末から明治・大正・昭和の始めにかけて、近代日本のブルドーザーの役目を果たした男

と言われるほどに、日本の多くのビジネスの土台作りにとっても貢献された方でした。

↑これでパリ万博いったそうです。そこでの影響が一番大きいようです。

洋装も。

昭和かな。ヨーロッパの国との人形交換会。

鎖国していた日本はヨーロッパに100年は遅れていると言われた。そこから急速に発展した産業の基礎を築いたのは彼の功績が大きな要因のようです。

もともとは、外国を嫌っていた。

1840年 阿片戦争(アヘン)の年に生まれた渋沢さん。
その後、阿片戦争のことを調べ「無理難題を押し付ける外国だ!」と外国を嫌って『攘夷』論者になった。だが、実際に海外に旅行し外国人と触れ合い自分の考えが間違っていたことに気づいていく。

討幕だ!といってたが、徳川慶喜の家来に。。

尊王攘夷思想で討幕に走るが、計画が頓挫し、そして逃亡。追われなくするために、関係のあった一橋家の家来になることに。当主は「慶喜」。

その後、まさかの 14代将軍の「家茂が急死」
そこで、さらにまさかの「慶喜が15代将軍に!」

名君のもとで内側から幕府を倒す!というっ考えだったか、いつの間にか幕府の家来。。

さて、そんな中

1866年「パリで万博が開かれる」とのことで慶喜の名代として、弟の昭武がフランスへいくことになり、その随行員として、頭が固くなく、経理に明るく、世話役のできる人物として、渋沢栄一が選ばれて、ヨーロッパに旅行にいくことになる。(後に「航西日記」に記したようです)

栄一を変えた「ヨーロッパ滞在1年」

・関心を示した
機械、貨幣、精密機械、織物

・貨幣について
各国の単価の違いについて考えさせられた。特に紙幣の役割について勉強し、この時の実感がその後たいへん役立った

・展示された新技術
数々の技術に強いショックを受けた

・毎晩開かれる夜会(やかい)
夜遅くまで自由に話し合える社交の場「ソワレー」に感動。

・銀行制度
オランダで 貿易と、それを支える銀行制度に関心をみせた

・透明なガラス
を作る技術におどろいた

・株式組織
たくさんの銀行や会社があって お金を集めて事業を起こし大規模な経営を行なっていた

こういった多くの産業をヨーロッパで学ばれたそうです。

そして、

攘夷の心が変わったのは、

人が尊敬されるのは、階級のせいではなくもっと「人間としての力量」によるものだと考えるようになった。これから国が発達するためには、社会全体がこのような考え方が当たり前だと思わなくてはならいと痛切に感じた。

国の財政の確立につとめた

ヨーロッパで100年かかった文明の発展を明治初めわずか10ねんでやりとげるようなものだったが、国の財政の改革に尽力した。そして、大蔵省事務次官にも就いた。

実業家への道

銀行の創立(第一国立銀行、第一勧業銀行)、印刷産業、製紙事業、ガス事業、化学肥料、などなど関係した会社500以上、関連団体600以上。と日本の近代文明の産業の礎を築いた方。

誠実さと忍耐こそ彼の一生貫いたテーマ

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) – 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。理化学研究所の創設者でもある。(引用元:Wikipedia)

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